岡山城に潜みし忍びたちの記録
岡山忍者隊「葉隠」頭領の泡影でござる。岡山の地に根を張りし我らが同胞の足跡、今こそ語らせていただくでござる。
宇喜多直家と三人の忍び
戦国の世にて、策略の名手として知られし宇喜多直家殿。彼が岡山の地を手中に収める際、三人の忍びを召し抱えたことは、あまり知られておらぬ話。
その者たちは、
- なまあぜ源六(げんろく)
- 西崎おこ右衛門(にしざき おこえもん)
- 小橋かん三兵衛(こばし かんざえもん)
これらの忍びたちは、夜陰に乗じて敵の砦に火を放ち、情報を操り、見事に岡山城の支配権を直家殿に献上したのでござる。
宇喜多秀家と伊賀忍者二十人
直家殿の子、宇喜多秀家殿の時代には、さらに多くの忍びが岡山城に集った。
秀家殿は、伊賀の忍び頭「服部藤内(はっとり とうない)」を招き、その配下として伊賀忍者二十人を雇い入れたのでござる。
これらの忍びたちは、密偵として敵の動向を探り、情報戦にて岡山の安寧を守ったのでござる。
小早川秀秋と十人の忍び
関ヶ原の戦いの後、岡山城を預かった小早川秀秋殿も、忍びの力を重んじたお方。
秀秋殿は足軽十人を忍びとして鍛え上げ、甲賀忍者の元締め「山岡道阿弥」や、徳川家康公の側近「岡野江雪斎」と連携し、西軍の動きを探り出したのでござる。
池田家と忍びの継承
その後、岡山城主となった池田家も、忍びを活用した記録が残っておる。
池田輝政殿の時代には、忍び「早川八五郎」なる者が城内で活動していたことが明記されておる。
岡山城に潜みし忍びの人数
これらの記録をまとめると、
- 宇喜多直家殿の時代:三人
- 宇喜多秀家殿の時代:二十人
- 小早川秀秋殿の時代:十人
合わせて三十三人の忍びが岡山城に在籍していたことが確認できるでござる。
だが、忍びの世界は表に出ぬもの。実際にはさらに多くの者が、闇に紛れ、岡山の地を護っていたであろうこと、間違いなし。
これにて拙者の語りは終わりとする。
岡山の地にて、忍びの魂は今も静かに息づいておるのじゃ。